大口よしのりについて

インタビュー

インタビュー

2004年1月2日

Vol.1 『『ひとりの声から』 静岡新聞社刊 より抜粋 』

――いつごろ、弁護士になろうと思ったのでしょうか。
高校三年の時、社会科の先生の言葉でした。
「法律を知らないために、他人の保証人になって自宅が競売にかけられ一家離散したり、暴力団の脅しに耐えられず財産を取られたり、夫の心ない行動によって妻の人権が蹂躙されたりと、理不尽なことで庶民が泣かされている。法律を学んで、弁護士になり、そうした不幸な人の相談相手になって、こつこつと不正と戦う“赤ひげ”のような弁護士というのも、一つの生き方ではないか。自分の授業を聞いている生徒から、そんな弁護士が出てくれるとうれしい」
この先生の言葉に感激し、弁護士になろうと思ったのです。

――大学を卒業した年に司法試験に合格したそうですが、学生生活はどうでしたか。
まず、大学の法職課程コースに入り、両親にあまり負担をかけられませんので、現役合格を目指しました。大学二年から勉強時間を増やし、一日平均七時間、土日は十時間、ひたすら勉強に明け暮れました。食事中であろうが、トイレの中であろうが、基本書を離しませんでした。睡眠時間は、一日四時間ほど、寝ている以外は勉強しているような毎日でした。感傷にひたりたいときもありましたが、自分で決めたことですからそれは許されません。
昭和五十一(1976)年四月、大学三年のときに、初めて司法試験を受験しました。会場には、三十歳前後のベテラン受験生がひしめき合っており、その独特の雰囲気に完全に圧倒され結果は不合格でした。
昭和五十二(1977)年五月、大学四年、現役最後のチャンスの年に、再度、司法試験に挑戦しました。試験は短答次試験を受けて合格すれば論文試験を受け、これに合格すれば口述試験があり、この三つすべて合格しなければなりません。結果は、短答次試験には合格できましたが、論文試験は不合格でした。私は、「果たして自分は司法試験に向いているのか。一生を受験のためにつぶすのではないか」と、底知れぬ不安にさいなまれました。こうして、自分の弱さを嫌というほど味わったのです。
大学四年の秋、このころ、周囲では就職の話でにぎわっており、私一人だけが取り残されてしまったような気分になりました。晩秋、自己の感傷を打ち破り、あらためて必勝を期して三度目の勉強を開始、司法試験の専門学校に通いました。
勉強に取り組む姿勢は、以前にも増して真剣になり、福沢諭吉ではありませんが、一分でも長く勉強したいと机の前に座り続け、どんなに寒い日でもふとんの中に入りませんでした。正月も帰省しないでアパートにこもっていると、隣室の一人暮らしのおばあさんが
おせち料理を持ってきてくれました。おばあさんの心がうれしく、涙が出るほどおいしくいただいたことを思い出します。
昭和五十三(1978)年三月、大学を卒業し実家に戻り、そして三度目の挑戦。受験番号が「八八八番」。末広がりの八が三つ。短答・論文・口述とすべてに合格できると確信しました。その年の十月七日、合格掲示板に名前を見いだすことができました。

――弁護士時代の忘れられない事件を教えてください。
やはり、忘れられない事件は弁護士として初めて受けた相談です。これは、暴力団による民事介入事件、いわゆるミンボーでした。
昭和五十六(1981)年、東京の法律事務所に勤務して一ヶ月ほどたった五月の夕方のことです。この法律事務所には、十五、六名の弁護士が所属していましたが、その日はたまたま私しかいませんでした。そこへ、Aさんが駆け込んできました。切迫した表情のAさんは、「うちにチンピラ十数人が押し入って、立てこもっているんです。隙を見て逃げ出してきました。家内や二人の子どもが心配です」と訴えました。
事情を聞くと、Aさんの親類が暴力団から借金をして返さなかったとのこと。Aさんの家は、その親類の土地の上に建っていたため、突然ヤクザがやってきて、「親類の代わりにAさんに借金を払え、払えなければ権利書を寄こせ」と脅されたということです。私はAさんから「一緒に来てほしい」と言われたものの、二人だけでは危ないので、最寄りの交番へ行き警察の協力を依頼しました。そして、パトカーに同乗し、Aさん宅に着き、警官がヤクザたちを警察署に連れて行った後、私はAさんに次のように指示しました。
「彼らは、この権利書を狙っています。権利書は、私がお預かりして法律事務所の金庫に保管しましょう。ヤクザが来たら『大口弁護士のところに行ってくれ』と言ってください」
その後、私とAさんが警察署へ行くと、ヤクザが私に「てめえ、覚えておけよ」とすごみました。実際にその数日後、十数人が私の所属する法律事務所に押しかけてきました。
事務所はただならぬ雰囲気になり、事務の女性は震えていました。私も内心は不安でしたが、表向きは毅然とした態度で臨みました。私は、「大勢だと冷静な話し合いにならないので、一対一で話し合いましょう。そちらから代表者を出してください。そして他の人は、ここから出てください。出ないと不法侵入になりますよ」と大きな声で言いました。そして、ヤクザ幹部と一対一で話し合いました。最初はスゴみをきかせていましたが、私は一切妥協しませんでした。そのため、最後にはあきらめ、自分たちも弁護士に頼むしかないと考えて帰っていきました。
弁護士同士での話し合いはスムーズに進み、結局Aさんが親類から土地を適正な価格で買い取ることで決着しました。
ミンボー関係の事件では、世間を騒がせた浜松市の一力一家の事件にも関わりました。これは、住宅地のなかに黒ずくめの通称「ブラックビル」という暴力団の事務所ビルが建ち、不安に感じた住民が立ち退き運動を起こしたのです。弁護団の弁護士が刺されたり、
住民運動の中心者も切りつけられたりしました。私も弁護団に参加しましたが、静岡県弁護士会浜松支部の弁護士を中心に、その後、県弁護士会、日弁連挙げて大弁護団が結成され、住民側が勝利しました。
一力一家の問題をきっかけに、当時民事介入暴力被害者救済センターの事務局長であった私も加わり、静岡県弁護士会の有志で、暴力団に人権を侵害された人たちが気軽に弁護士会に相談できるような制度をつくろうということになりました。そして県弁護士会で臨時総会を開き、全国に先がけて「民暴110番」という制度を静岡県弁護士会につくりました。

静岡新聞社刊 『ひとりの声から』 より

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